最終的には「良かったねぇ」という作品でありました。昨日の日記で色々書いてますけどそれすべてがネガティブな意味合いであったわけではないので。CLANNADの本質は「楽しさ」ということに集約されるのでしょう。KEYの集大成と喧伝していただけのことはあったな、と思います。まず名作と言っていいでしょう。

 
 以下、ネタバレ含む。注意!!
 

 アフターを終えて思ったことはいくつかありますが、プレイヤーの多くが言及しにくい、或いは想像でしか話せない、疑似体験はともかく実感があまり無いのではないか――そんな視点から振り返ってみたいと思います。
 つまりは「子を持つ親」としての視点――なのですが。

 まず発病した渚が最後まで自宅出産に拘ったらしいという描写が無いことが不思議です。そもそも産院・病院のない街と言うだけでも不思議な場所ですがそれはまあ置くとしても、あれだけ原因不明としておいて病院への関わりがほとんど無いというのはなぜだったのでしょうか。母胎に危険があるというだけでも自宅出産は控えるべきですし、そもそも夫や家族、両親からそれを働きかける場面もありません。これはあまりにも奇異なことです。

 産むという選択肢の是非は問題ではなく、産むのであればその成功率(母胎と胎児の安全)を高める意味でも自宅出産より産院での分娩を望むべきでしょう。生まれて来る子供だってなにかしらの問題がないとは言えないわけですから。産むとき隣にいて欲しいというのであれば、立ち会い可能な産院を探せばいいわけですし、そんな産院がないという描写もない。この疑問はあまりに大きく物語に影を落としています。精神論を唱えるのは最後の場面だけで充分、朋也の手で取り上げてもらいたいというだけではあまりに説得力に欠けます。
 そして誰もがそこに思い至らないというのも変な話です。朋也や秋生ならともかく、早苗さんであればそう判断してもおかしくないはずなのに、それがないという物語。ここでどうしても引っかかりました。なんとか理由を見つけたいと思いましたが、少なくともいまのところ強力に反証できる理由が見つからないのです。

 汐の養育を早苗さんに任せた――というのは充分に納得できます。むしろ朋也が自分一人で抱え込まなかったことにこそ評価をしたい。それが養育を投げ出したという事実であっても、サポートしてもらえる家族を持ち得た積み重ねによって救われています。両親の支えもなく、地域社会のセーフティネットがなかった場合、親もそうですが子にかかる負担はあまりに大きく、生命にすら支障を及ぼしかねません。渚が良い例でしょう。古河夫妻をサポートしてくれる祖夫母がいたなら、或いはこの物語もなかったかもしれませんね。CLANNADの主張する「家族」とはここに由来する部分が大きいはずです。

 ところで、どうして最後風子が出てくるんでしょうか? あと、渚は二回も救われているんですが…。KEYはラストで風波立てるの好きですねぇ(笑